悲しみに打ちのめされている人がいたら、
とにかく笑わせようとか、前向きになってもらうことを、
作業療法の計画にしない。目標にしない。
いつも学生に伝えてきた。
学生なら実習で、働いているなら仕事で、
自分の内面に向き合わざる得ない状況に陥ったことを考えてもらう。
君らにお笑い番組を見せたり、癒しの音楽を紹介しよう。
一時的には気が楽になるかもしれないし、悩みを忘れるかもしれない。
でも、ほんとうの苦しみから解放されたわけではない。
一番の問題は、課題は解決したと思い込んで、
それ以上の援助や情報提供などの何らかの貢献、支援を止めてしまうこと。
自分が納得するために何かをしなければと思って、
何かをやったこと自体に注意が向きすぎている時。
その状況が悪いとは思わない。自覚できないことが、問題。
話を親身になって聞くだけなら、誰でもできる。
プロとしてお金を受け取ってサービスを提供する立場にあるならば、
話をよく聞くことで心理的支援になりました、とは言えないとボクは思う。
何らかの成果を示せ、とは言わない。状況を知らずに言うこともできない。
自分の足りないことを知り、そのことから逃げない。
学習や経験によって満たされることもあるだろうが、
それでも足りないことがあるを知っていることが、大切だと思う。
足りないことよりも、止まることが最も良くない。
歩みを止めないことが大切かなと個人的には思う。人には強要しない。
悲しみに打ちのめされている人がいたら、
あなたに何をすればいいのわからずに不安があるが、
どうにかしたいと思っている。
そう素直に伝えることが、相手と自分に対して真摯であると伝えてきた。
これで終わってはいけないが、
この始まりは重要で自然な一歩だと思う。
それは友情に似ている。
思うように相手の感情や思考をコントロールしようとするのではなく、
相手が思う自分になれるように、
押し付けず言いなりにならいことを、約束する。
悲しみも無言も、拒まない。
拒まないことを止めない。
それは、できることだと思う。
多くの人ができていることだと思う。
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