ずっと覚えている。覚えているし、何度も思い出している。
「1人の患者の話を聴く事を30分保証されているリハ職員は、
羨ましい。だって、私たちはそのために看護師になったんだから」
みんな、同じ方向を向いている |
3年前、担任をしていた県外の実習生から連絡があった。
「事例を担当させてもらえず、研究をさせられている。
研究ではなくて、事例を担当して、事例報告がしたい」
実習を辞めたいとまでいう。待てよ、それは同じことだと説いた。
たとえば、
事例を担当して、望みたいことがわかったとする。
それをどのように実現するのかを考えた時、
急に湧いてきたアイデアだけで支援をするのは不十分。
極端な話、
いつも表情が暗く寡黙な高齢者が、よく笑いしゃべり出したとする。
それは良いことだと思って、同じように続いて欲しいと考えたとする。
その時、なんでこの日は変化があったんだろうって考えるよね。
あ、今日はチョコレートを食べた、
きっとこれはチョコレートの効果に違いない、もう間違いない、
チョコレート療法だ、明日もチョコレートを食べてもらおう、
もし変化がなくてもいつか効果がきっと現れるはずだ、
だってもう1人同じような人がいたんだもの
と、現象を解釈することも可能でしょ。
これは分析でもなんでもないと思うかもしれないよね。
それじゃあ、どうしたらいいわけよって思うでしょ。
チョコレートを食べた時と食べなかった時を比べたらいいよね。
もちろん、この人だけの結果だけじゃ不十分だし、
他にこの日はどんなことがあったか調べてないといけないよね。
何が正しいか見極めようとする姿勢が正しい |
研究とは手段だと思ってみてはどうかな。
目の前の方にとって必要なことを支援をしたいと思うなら、
それを偶然や説明できない個人技ではなくて、
患者さんに関わる人が誰でも確実な方法で支援できた方がいいでしょ。
そのための手段と考えることは可能さね。
研究、臨床と分けることが間違えている。
みんな、同じことをやろうとしていて、
手段が違うだけなんだよね。良い、優れている、正しいは、ない。
研究っていうのは臨床経験年数に関わらずにずっと必要なことで、
それを止めたらさっきのチョコレート療法みたいになるよ。
そうなっても自分では気がつかないからね。こわいでしょ。
よく晴れていたから快晴療法だ、とか言いかねないさね。
支援が趣味ならいいんだけど、お金をもらっているからねぇ。
いずれ身につけないといけないことを体験しているわけだから、
むしろ幸運だと思う事もできるんじゃないか。
それで、どんな研究をしているの。
「認知症高齢者を集めて、かなひろいテストをして、
その集団に通所利用日は1日中、漢字の書き取りや朗読をさせて、
1ヶ月後に再びかなひろいテストをして作業療法の効果を判定する」
・・・・・・・・・・・そうかぁ
もうひとつだけ助言するよ。
研究というスタイルそのものが、難しくて立派というわけではない。
これが社会の悩み苦しむ人々にとって何の役に立つのか、
疑問に思う研究も世の中にはある。いずれわかると思う。
それはやっているうちに気がつかなくなることもあるらしいが、
気づくにはやってみるしかないんだよ、たぶん。
だから、そういう意味でも勉強ができてラッキーと思えばいいさ。
走るな、でも、止まるな。 |
「ふぅ〜先生みたいに何も悩まない人間になれたらいいですよね」
あららら。
0 件のコメント:
コメントを投稿