最近,日本各地の老健OTさんや通所OTさんたちと,
ADOCや研究に関するメール,電話でのやりとりが増えてきた.
ふるえるフレーズは,「まずやってみました」
テレビドラマのあすなろ白書は観ていなかったけど,
井上靖のあすなろ物語は好きだった.
恥と後悔と希望を感じていた.
翌檜(あすなろ)の木には,
明日こそ立派な檜(ひのき)になろうと誓いながらも,
絶対に檜になれないという由来があるらしい.
身の丈を超えるなよと諭しているようでもあり,
目標を持って生きよと勇気づけているようにも感じた.
印象に残るのは,主人公の諦観の境地ぶる態度.
自分を見透かされたようで,痛々しく読んだ覚えがある.
それ以上に,明日は檜になろう,なろうという翌檜の木の希望が,
正確には名前の由来が,20年も心に残っている.
最近になって増えた身の丈を超えている仕事の関係で,
日本各地の作業療法士と知り合う機会に恵まれる.
無名で若くても,熱くて折れない心を潜めている人がたくさんいる.
古いあきらめや,強い圧力や,固い無関心の空気に包まれていても,
誰かを責めたり軽蔑したりせず,自分への期待も保ち続け,
誰にも見えないところで悔し泣きながら仕事をしている人たちがいた.
それを知っているからこそ,
助言めいたことをメールしたり,偉ぶって講演をする時には,
彼ら,彼女らが自分を傷つけないように,言葉を選ぼうとしている.
一番良くないのは,正しく言えばボクが避けようと意識しているのは,
「私はできた,あんたはやっていない」
というメッセージの送り方だと最近わかってきた.
責任を持ってフォローできる相手だったり,
そう言ってもらうのを待ち望んでいる人なら,もちろんイイ.
一時的であったり,全体の中のひとつのプロセスなら許せる.
気づいているのは,感じているのは,誰よりも自分なんだよね.
それでもより良くなろう,なろうって思っているからこそ,
現状に満足せずに求め彷徨っているように見える.
ボクはそうだった.
介護保険のOTは同じことばっかりやるなよ,とか
急性期のOTはOTにしかできないことやってよ,とか
機能訓練するOTは,とか,機能訓練をやらないOTは,とか・・・
他人に言われなくても自身が一番感じていることだし,
理想と現実は違うんだよって反論した瞬間から,
自分を責め始めているんじゃないかと思う.
アウトプットする人たちにはそれぞれ信念もあるし,
あえて強く言わなければいけない背景や戦略があるのもわかるんだけど,
そうしなくても上手く導いている人だっている.
もし今日は立派で偉くて強い誰かと同じ人になっていなくても,
より良い自分になろう,なろうとしている限りは,魅力がある.
明日は良くなろう,なろうとしているプロセスにこそ,可能性がある.
自分は翌檜だと思い込んでいるけど本当は檜がいて,
それが本当に翌檜か檜か判断できないことが一番の問題,
というのがあすなろ物語の強いメッセージだった,ように思う.
翌檜だろうが檜だろうが,つまり,
世の中に本当に貢献できている良い人かどうかよりも,
明日は今よりも良い人に成ろうという意思と行動が,他の何よりも大事だと思う.
あきらめている人を引きずり起こすことは,できない.
だからボクは始めから,やらない.
立ち上がろうと思っている人がいたら,その人自身よりもボクは応援したい.
でも,ボクが考える正しいという価値観は,押し付けないように努力している.
その人が考える正しさがボクとは違うものであったとしても,
より良い社会貢献ができる人になろうというのであれば,できるだけ肯定したい.
明日は成ろう,明日こそ成ろう,明日はきっと成れる.
そうねぇ,なれるんだよ.もし誰か嘲笑うなら,ボクが蹴飛ばしてやる.
できるよ,なれるよ,あれるよ.
老健での作業療法とは!(tomoriつぶやく)
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