それがママの負担を軽減することにつながるから、だったと思う。
意味づけは、一時的なことかもしれない。
継続的に行うようになれば、意識しなくなるかもしれない。
間接的にママの看病をしているという意味から、
やらなければいけない自分の仕事という意味になるかもしれない。
少なくてもママが体調不良という状況の中では、
環境に期待されていると思い込んでいる自分の役割、かな。
ADOCの開発に関わってから、医療福祉保健領域以外の方々に対して
作業療法についてプレゼンする機会に恵まれるようになった。
先日ADOCのプレゼンをした後、ADOC開発に直接関わっていない、
ボクより一回りほど年上に見えるエンジニアさんが声をかけてくれた。
亡くなった親父さんは、脳出血の後遺症で重度の失語症があったという。
何を伝えようとしているのか汲み取ることができず、
そのこと自体に焦り、不安や自分への苛立ちを感じていたという。
でも今プレゼンを聴いて思ったことは、言葉を伝える行為よりも、
どんな手段を使ってでも、やりたかったことを確認して、
できるようにする支援が親父には必要だったんじゃないか、と話した。
家族以外の誰にも話さないが、ずっと気になっていたことだったと、
ゆっくり言葉を探しながら彼はボクに伝えてくれた。
今、自分がやっている仕事は親父とは関係ないことだと思ってきたが、
関係する可能性のある仕事だということに気がついた、と。
仕事をする上で、これからは意識することになるかもしれない、と。
ボクはあなた達をすごく、応援しています。と両手で握手を求めた。
ボクがADOCに期待していることは、
クライエントの力になりたいと願いながら関わるすべての人が、
特別で全く新しい困難な挑戦をするわけではなく、
やっていることに意味づけることができるんじゃないかということ。
それは立位保持訓練、トイレ介助や手芸の道具を準備することかもしれないし、
車いすを押して散歩することや自宅から鉢を運んでもらうことかもしれない。
自分で飲むためのココアを、自分で淹れることかもしれない。
環境因子である支援者もまた、クライエントからの期待によって、
あるいは期待されているだろうと思っていることによって、
今やっていることの価値が判断されるだろうと思う。
可能な限り挑戦して欲しいので、
ストーリーがあれば後押しをする力になると期待もしている。
すぐに結果が見えなくても、感じることができなくても、
人を想って選択したことは楽しいと感じることができますように。
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