沖縄で身体拘束について現場の人にインタビューを何十年も続けてきた、
フリーライターの方が講師だった。
講師は強いメッセージを放った。
縛られた人はこう思う。
あ〜自分はついに人に縛られてもいい人間になったんだ、
そこまで落ちたか、そんな人間になったか、と。
司会を担当したOTのy先輩は小さい声で強く言った。
縛る人はこう思っている。
あ〜自分はついに人を縛る人間になったんだ、
そこまで落ちたか、そんな人間になったか、と。
責めているわけではない。
縛られたのは身体だけではない。
救おうとしているのは、縛られた人だけではない。
急性期病院に勤めていた頃、身体拘束の実情はひどかった。
看護師にとって転倒と転落を防ぐことは、
最大使命と思っているように見えた。
シーツで体幹と車いすを巻くように縛り、
下から逃げられないように包帯でY字に縛り、
廃車から抜き取ったシートベルトで車いすに固定し、
鳥かごのような乳児用ベッドに押し込め、
安全と安心を提供していると胸を張っている人もいた。
言葉で説得しようと思っても、
教科書に書いてあるような理想と現実は違うのよ、
責任を取るのはリハビリではなくて看護師だろ、
と返されてしまえば、そこから話し合いはできない。
だからこそ、転倒・転落の報告書を分析して、
縛らなくても大丈夫だよということを証明する必要があった。
なぜなら、トップダウンやルールによって
縛ることを禁止できたとしても、その理由がわからなければ
きっとどこかで同じ過ちが起こるだろうと思っていた。
でも、もっと大切なことがあった。
大切なことは縛らないことではなくて、
この人がどこで、だれと、どんなことをする人だったのかという
感性を鈍らせないことだと思っていた。
娘が期待するようなピアノを弾く口厳しい母親であったり、
息子が期待するような人に甘えない買い物好きな父親であったり、
孫が期待するようなきれい好きな編み物教室を営む祖母であったり、
姪っ子が期待するような市場で人気のある漬け物屋の叔母であること。
入院する前はそのままの人であったように、
退院したら再びそのままの人であってもいいんだと、
本人と家族が思えるように今をつなぐ必要があると思っていた。
初めはあまりに届かないので絶望的な気持ちだったけど、
その考えと行動は時間をかけて確実に変わったことをよく覚えている。
絶対に何があっても縛るなとは言わないが、
縛らなかったら何ができるかは絶対に考えて欲しいと今も思う。
縛られたのは身体だけではない。
救おうとしているのは、縛られた人だけではない。
とても難しいですよね。
返信削除今回の精神科実習でも保護室や束帯による拘束現場をよく目にしていました。
セラピストと違ってNs達は常に看護をしないといけないし、責任的立場にもある上、業務をこなす上でも苦渋の決断かとほぼ諦めていました。
でも考える事をやめたらおしまいですよね。
もし具体策があったらいつか聞かせてほしいです。
そうですね、難しいです。確かに、精神科はもっと難しいです。
返信削除治療的意味がある拘束の場合は判断基準と解除基準が大切ですが、
ガイドラインが明確にされているわけではないからです。たぶん。
どんな性格と疾患の人が、どんなことをする(作業)ために、
どんな物理的・社会的・制度的環境の中で生活するかによって、
対策の方向性も手段もずいうぶん変わってきます。
なので、具体策はあり得ず、まずそれぞれを評価しなければいけないです。
少なくても、これらの評価をする必要性を認識することが大切ですね