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2014/07/23

地域作業療法の専門性

作業療法の専門性を問う必要があるか?医療,介護,地域では答え方が少し変わってくるのではないかな.今回は地域について考えるけど,個人的な結論から言えばYes.

地域で働く作業療法士と対話をしていると,作業療法の専門性にこだわる必要があるのかと彼らに問われることがある.その時,2年間だけ支援費制度の支給額を決定する市町村の審査会に参加した頃を思い出す.メンバーは医師,ケースワーが中心で,圧倒的な知識と知恵を目の当たりにした.今まで自分は狭い世界で仕事をしていたんだと思い知った.


作業療法士の専門性をアピールすることが,地域で活躍するための土台作りだという重圧もあった.必死になって何とか意見を伝えようとするほど,どうしても疾患や症状に限局した話題を選択しがちだった.目的と目標が生活や人生構築から離れてしまい,ひどく自己嫌悪した.手段が目的化しているなと自覚していた.


作業療法士を地域に送り出そう!という声は年々大きくなっている.しかし,地域に送り出すことが目的ではないよね.あくまで手段であって,目的は社会貢献にあるはず,というよりあるべきだと思う.貢献するためには専門性を追求する必要があり,必然的にセオリー(理論)を追求するのではないかな.でも,やはり同じく学ぶことが目的になってしまうことがあって,目的を確認するために立ち止まることが度々あった.


地域で働いている作業療法士に,自分を守るため排他的になっていないか?と言われることが不安だった.そんなことやっている間にも地域では悩み苦しむ人々がいるんだぞ,と言葉よりも物語る目で見られている気がした.自分が仕事のやりがいを感じるために,社会から認められるために能力を誇張している可能性はないかと問われる気がしていた.


母親は精神疾患のために自分の生活管理が厳しく日中は精神科デイサービスに通い,父親は重度の片麻痺で万年床で過ごす生活のため自宅は足の踏み場のないほどにゴミで溢れ,祖父は重度の認知症でデイケアに通い,知的障害のある娘はコーラを飲むために作業所で利用者や職員に100円で身体を売り,叔父は巧妙に生活保護費を奪い続ける.

役所で毎月10件ほどのケースを審査したが,すべてが過酷な現実だった.地域で働いている作業療法士が直面している日々を垣間見た気がして,彼らの言い分がわかる気がした.






他にやることがあるだろ問いたくなる気持ちもわかる.でも制度の隙間からこぼれた落ちた人々に対して,医師やケースワーカーたちは専門性を放棄しているだろうか?いや,それは違うよね.医師らはあらゆる手段で複数の制度を組み合わせてセーフティーネットを築いていたが,医療的な知識も活かしていた.


自然災害で混沌とした状況の場合,料理人や農家,漁師,建築関係者,医療職,役所職員,教職員,不動産屋,銀行員などの職種に関係なく復旧活動に取り組むだろうと思うし,それが最良の選択だとも思う.でも,復旧が落ち着いてきた頃にはそれぞれが得意とする知識や技術を活かして働いた方が,生産と消費がより早く広く回り続けるだろうと思う.それが社会の仕組みだとするなら,専門性を高めることは専門職のアイデンティティのためというよりは社会のために必要不可欠な選択かもしれない.(ここが一番大事だったけどまだ自分の理解力が低い)


専門性を追求して活用してもらえるようにアピールすることは社会にとって利益があり,しかし同時に伝えるという手段が目的に変わり易いことを自覚する.その上で,専門性について学びを深めることは社会にとって価値があり,結果的に専門職もやりがいを感じる機会になるかもしれない.この場合,自覚と順番が重要なキーワードになる・・・ように思う.これを誤ると手段と目的が混同するんじゃないかな.

Amazonのリンクの張り方がよくわからんなー