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2014/01/19

ADOC-Sは障害ではなく生活に視点を当てる

「障がいという言葉のない学校や社会を作りたい」
これがADOC-Sの信念です.
ADOC projectのコンセプトです.







ボクが非常勤で勤める通所介護と次女が通う保育園の交流会で,
高齢者と園児がペアになってレクをする場面になった.
集団から少し離れた場所に1人の園児が保育士といた.

ダウン症と思われた園児と保育士は所在がなさそうだった.
私が高齢者役に,と言って園児の手を取ると,
保育士は救われたような表情をした後,黙って少し距離を置いた.

彼がどのような反応をするのか待っていると,
身体をすり寄せてきて,ボクの膝の上に座った.
舞台の上で踊る保育士に合わせて,同じ動きをしようとしていた.



ボクは彼の少し柔らか過ぎる体幹を支持し,
数十秒で注意が逸れてしまうことや,早い動きに戸惑うことを観察していた.
保育士が様子をずっと眺めているのは,視界の端に映っていた.

彼が求めるままに身体を寄せ,
集団の動きから注意が外れた時はわかりやすいようにサポートした.
果たして,これは最良の支援と言えるのかとボクは考えていた.

保育士に助言した方がいいのか,彼の思うようにさせた方がいいのか,
集団に合わせるよう少し強くても指示をした方がいいのか,
あるいは,保育士と通所職員の意図に委ねた方がいいのかと悩んでいた.



悩む理由は,いまここでやる支援,あるいはやるべきと思う支援が,
これからの学校生活,家庭生活にどのようにつながるのか,
イメージできないからだった.

結局,15分で終わった交流会の間では,最良の答えはわからなかった.
翌日,長女の友人の母親が感謝の言葉を述べにきた.
あの園児の母親と知り,そういえば医療職だったと思い出した.

友人や同僚には,医療的処置が必要な幼児や学校教育に特別な支援が必要な児童,
就労に福祉的な支援が最適な子供の母親が何人かいる.みんな同業者だった.
彼女たちにボクはADOC-Sのコンセプトについて意見を求めたことがある.










共通していた意見は,医療的な知識があるということは,
必ずしも最良の選択ができることにつながらない,ということだった.
そう話した時の表情について言葉で表現できる方法を,ボクは知らない.


知識を得ようとする強い欲求と同じくらいに,
知ることによって受け入れ難い現実が襲ってくる可能性を恐れたという.
恐れている自身を克服しよう,あるいは受け入れようと葛藤しているようだった.

知識というのは症状や状態に偏っていたが,それは不自然ではないとボクは思えた.
先のことはわからないと感じながらも,知りたくないと思う感情も,
それでも知るべきだという葛藤も,期待も諦めも,あってごく自然だと思った.



その上で,いまやるべき支援が将来のどのような生活につながるのかと,
親と本人と先生と専門的な支援者が話し合う機会は,理想的だと全員が話した.
どうしても障害に目が向きがちになってしまうから,と静かに話した.

保育士の視線を感じながら彼を抱いていたボクは,
ちびっこOTがこれまで支援してきたエピソードを思い出し,
いま何をやるべきかは自分1人で考えるから最良かわからないんだと気づいた.

ADOC-sの体験版(無料)が出たことを,彼女たちに話そうと決めていた.
障害ではなく生活に視点を当てた支援は難しいけれど,
最適な選択になる可能性があると思うなら,使ってみて欲しい,と伝えよう.













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