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2010/12/05

人間にとって科学とは何か

先日、職場の健康診断で問診票を老医師に手渡したら、
「逆」と一言放って突っ返してきた。
読みやすい向きで手渡せ、という意味だと気づくのに数秒かかった。
高校の頃は何をやっていたんだと聴くので、何もやっていませんと答えると、
「バカかお前は、刑務所にいたんか」と言われた。もちろん、殴らなかった。


科学哲学者の村上陽一郎が書いた「人間にとって科学とは何か」がおもしろい。

プロトタイプの科学研究活動について、
「知識の生産、蓄積、流通、活用、評価、報賞までを含んで、それらがほぼ完全に
科学者共同体の内部で「自己完結」したままで、一世紀近く発展してきたという
顕著な事実が〜

「〜共同体の外部にクライアント(活動の成果の恩恵に浴する人々)が存在しない、
と言ってもよいでしょう。」(p.23)

ドキっとした。それは抵抗あるなあ。
たとえ、そのプロセスで偶然的に社会貢献をするような発見があったとしても、
好奇心駆動型のままだと発展しないような気がする。
少なくても、作業療法においては。

社会心理学者の故・山内隆久氏の引用も興味深かった。

「医師には治療を依頼はしても、人生を預けるわけではない。
人生を決めるのは自分の権利だし、また責任でもある」(p.64)

作業療法士にとって馴染みやすい言葉であると思うが、
果たして臨床でどれだけの人が理想を実践できていると感じているのかな。
麻痺手の随意性やトイレ動作の自立度ならいくらでも滑らかに説明するのだが、
それはどこで誰とどんな生活を送るためなのと質問して
即答できるOTは少ない、と思う。

さらに医療分野における「(患者ー医師間の)知識の非対称性」、
「専門的知識の独占」は崩壊しつつあり、時には逆転する場合もあり得るという。





少しだけ引用
「患者やその家族が病気について十分な知識を持つことは、
むしろ自己管理能力を高め、
医療チームとのコンプライアンスを増大するのに役立つと考えられます」(p.67)

ずっと後半に飛んで長めに引用
「非専門家のプラットホームへ専門家の知識をどうやって乗せるのか、
橋渡し役の人たちは非専門家の人たちが持っている恐れや疑問を大事にし、
専門家の持っている知識や活動も大事にしなけれならない。
その両方を大事にすることがいかに難しいか。その難しさを
どうやって克服できるのか、少なくても今すぐにきれいな答えが出ないけど、
取り組んでいかなければなりません」(p.179)

なるほど。今やセラピストの思惑や願望には関係なく時代は変わりつつある。
提供されるサービスに疑いを持つということは、自分のことに責任を持つことである。
そのような態度に戸惑うセラピストもまだいるかもしれないが、
ほとんどの人は受け入れているように思うし、受け入れさる得ないはずだと思う。

それが変えることのできない流れなら、新しい仕組みが必要かもしれない。
サービスがどのように提供されるかについて、
クライエントが意思決定に参加できる場面を作る仕組みが求められている、
と思う。(ん〜うまく書けない)

その仕組みが繰り返し利用されるようになれば、
専門家と非専門家の意識はさらに新しい形へと変わっていくかもしれない。

ADOCは新しいシステムではなく、新しい価値を目指す。

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